播州そろばん




播州算盤の産業史については、研究不足から多くの間違いが有りました。

今から約250年前に、摂津堺からその技術が伝えられたものと思われます。

堺からの移住職人か、三木からの出稼ぎ人によって持ち込まれたのは解りませんが、この頃の堺の町は、宝永元年に開削された新大和川によって大阪との地続きの便は絶たれ、諸産業は大阪に移転の時期にあたり、堺の中浜に100年以上栄えていた算盤商と職人も数軒に減少し、反対に大阪に卸商が多く開かれました。

さて、この商品は何処から仕入れた物でしょうか。 一方、三木地方では算盤の材料に使用される樫の木についての文献が古文書に現れています。

三木市宝蔵文書の中に、文化年代に算盤産業に係わる事項が見え、天保記には算盤問屋が創業し、安政4年(1857)の三木町正金銀取扱商人名前調べ帳には、天保改革で営業休止していただろう問屋も8軒が復活し、上下拾ヶ町に平均して営業していました。

その算盤製造に係わる人達は、三木町と周辺村々から加東郡にも及び、竹ひご屋、粒屋、台屋、組立屋というように専業化し、地域的分業方式で商品の品質向上を図り、大量生産を成し遂げました。

三木の問屋は算盤の集積問屋であり、製品は川船で高砂へ、そして大阪へと送られ、大阪問屋ルートに乗せられ江戸を始めとして、北海道、沖縄地方まで広く販売されました。

今、各地の博物館や資料館には必ずと言って良いほど、三木の古算盤が見られます。

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